◆日曜日は空手の交流稽古会だった。
空手でも勉強でも仕事でも、教えることは大変難しくて、いかに「学ぶことは楽しい」と感じさせられるかが重要だと感じます。
「楽しい」というのは生徒さんに媚びて楽しませるのではなく、出来ないことが一つづつ出来るようになったり、知らないことを一つづつ知るようになって、生徒さんが「あ、自分ってやればできるじゃん」って自信が持てるようになり、自分の中にある可能性を自覚していくことが「楽しい」ことになるので、教える側はその手助けをしているのだと思います。
だから教える側は導く為に、いつまでも汗をかいて稽古しなければならないし、学び続けなければならないし、挑戦し続けなければならないのです。
それでようやく、ソクラテスが言った「真の良師とは、弟子に何物かを教える者ではない。弟子をして弟子自身にめぐりあわせる者である」に近づけるような気がします。
◆一つの価値観はあくまで一つのサンプルでしかなく、「提示」されたものであり、絶対ではありません。
指導者というのはそのサンプルを提示するものであったり、大胆な比喩ではありますが、先人の知恵と技を伝承していくものとして、ニュアンス的にはイスラム教が言うようなキリストやマホメッドのごとき預言者(予知する人じゃなくて、神の言葉の代弁者のこと)に近いのかもしれません。
様々な価値観を個々がまた様々な価値観にて吟味判断想像して、創造する。
それを世の中に提示して問うことが、人の正しい生き方だと思います。
それには師につき、修行しなければその資格を得られません。
「型からは入り、型から出る」ってことはこれだと思います。
結局、教える側も教えられる側も大差なく、互いに学び続けなければならないってことです。
でも、こうやって人生を真面目に実践しようとしたら、貧乏して野垂れ死にします。
歴史はそれを証明しています。
戦国時代も幕末も、生き延びた人間は二流の人間ばかりです。
そこそこ成功したかったら人生、本気になっちゃダメです。
野垂れ死にを受け入れれるなら、本気で生きたらいいです。
判断は自分次第です。
世知辛い世の中です。