◆日曜日は空手の大会なので、金曜日が大会前の締め稽古だった。
“段取り八分”の哲学からいえば、稽古の締めの様子を観れば、大会の結果は見えてくる。
個人競技に大番狂わせはなく、稽古の充実していた者が結果を出す。
もっと武道的に言えば、大会用の稽古するのではなく、日々、水の流れるごとく、稽古鍛錬をし続ける、大会は稽古の一つに過ぎない、一過性のことと考えるべきであろう。
だから、セコンドの声で勝敗が変わるなら、それは選手が不確定な実力者であることの証しであり、実際、セコンドに着いても、アドバイス指示を出さない道場さんもある。
指導者の仕事は、本来、稽古までで、大会時にセコンドまでするのは、功利的なスポーツ思想であり、武道ではないなぁと思いながらも、とりあえずセコンドには行く私であった。
闘うのは選手で、大変なのも選手で、指導者は励ます、勝ったら、褒める、負けたら励ます、それだけである。
それ以上のことを選手・大会に求めたら、武道とは違う、政治みたいな世界になる。
大概の空手の先生、格闘技の先生は自己顕示欲が強く、功利主義者である。
強い選手を作り、組織を大きくして、名誉・名声を求め、死んでなお、名を遺したいとガツガツしておられる。
武道は藝術である。
英語でマーシャル“アーツ”と呼ばれるくらい。
藝術の素晴らしさは、人に評価されることではなく、自身の内なる世界にあるものを、自身の全人格を総動員して表現し、世に動執生疑しうることこそに意味があり、自身の満足がある。
というわけで、大会は君達の価値観、人間力を発揮する場であるから、日々の稽古の流れの一つを表現してもらいたい。
そして、必勝すること。
◆水、木、金曜日は死んだね。
来週のスケジュールをこなせるのか?
食事と休息、ボディケアも雨晴とあべ先生とのお2人にお願いして難局を乗り切らねばならに。
子供達も戦いたが、わたしも戦いでござぃますり