矢郷良明 LIFE philosophy @deracine5to1

思考と哲学の旅日記

暴力装置としての矢郷良明

SMASH JCBホール大会まであと、6日になった。

正式に、カリスマ・カルト・プロレスラーにして"天才ジャーナリスト"、"天才ミュージシャン"、"富山が生んだメディア王・正力松太郎以来の天才"、"富山が生んだ策士・瀬島龍三以来の闇紳士"と呼ばれている、"選らばれし異端児"矢郷良明vs"富山発の鈍行列車"、小路晃のカード発表もされ、矢郷良明Road To The JCBホール大会はとりあえず達成された。

ここから先は目の前の障害物を取り除く作業である。
SMASHのワールド・レジェンド・リバイバルにたどり着くために、障害物の小路晃を排除しなければならない。

プロレスというものは自由そうに見えて、不自由なものだ。

賢明なる方ならお判りのことだろう。

しかし今回は自由にやらせてもらう。

私の言う自由とは、暴力装置としての自分を解放することである。

暴力を統治するための、より巨大な暴力的なもの。
あるいは組織的なもの。
社会学者のマックス・ヴェーバーはそれを「暴力装置」と呼んだのだが、我が内に眠れるその暴力装置に火を入れる時が来たのだ。

それは小路晃が相手だからではなく、プロレスから鬱積させられたストレスを、プロレスで解放する為に、暴力装置という名の残虐自我を解放したいと思っていたら、たまたま目の前に小路晃が通りがかったのである。

そう、これは公開の通り魔なのである。

そういった犯罪的なものは下衆なる諸君は金を払っても観たいはずだ。

「人間の最も奥深い本能は、死への本能なのだ」
フロイトは言った。

フロイト的に言えばまさしく私はタナトスに満ち溢れている。

或いはそれは、サルトルが言うような、私自身の自意識からの脱出か。

そのような葛藤は観るものを幻惑させる。

まるでメスカリンやアシッドを喰らったように。

ショーマンとしての最高位は、感動を与える者ではなく、トリップを与える者ではないかと思っている。

THE WILLARDのタリホーを聴いて休もう。