矢郷良明 LIFE philosophy @deracine5to1

思考と哲学の旅日記

懸侍表裏一隅を守らず

柳生新陰流宗家二十一世 柳生延春氏と作家の津本陽氏の対談を読む。
戦国末期に新陰流の上泉伊勢守神道流の柳生石舟斎が立ち会いし、石舟斎は伊勢守に完敗し弟子入りし、柳生新陰流が生まれるのだが、この上泉伊勢守の新陰流は、パワーとスピードと得意の技で間に合うという、戦国末期までの剣術の技術を、我と敵との相対的な関係の中から一つの刀法が作られ、それに従う方が勝ちやすいという、千変万化のサイコロジーを持ち込み革新した。
それの一つが『懸侍表裏一隅を守らず』であり、攻めるときは待つ心を持ちながら、待つとき(受け)は攻める心を持つという、心と技とが逆になるものを自分の中に調和させて持つという考え方である。
◆確かに闘いのレベルがあがるほど、心理的な部分が重要になる。
本書にも「闘争心とパワーとスピードと技術で通用する闘いのフィールドは、稚拙なレベルである」と語られている。
空手の修業時代にこのことはよく言われた。
『闘いの最中に自分を冷静に観て、相手の呼吸を外し、虚から実を得る動きを連続できれば、闘いをリードできる』と教えられた。
◆《本当は試合といっているものすべて、間合いとタイミング・闘志・感覚、そして学んだ技と鍛えた身体を試している競技であって、真剣勝負ではない。
一つでも制約があれば真剣勝負ではない。》
と剣術関係の方々はよくそんな話しをされるが、その通りだと思う。
一つのことを究めようと、長年の毎日の修業を続ける方々は、どなたも哲学者である。
努力を途中で辞めたらなんの意味もない。
誰も昔の自慢話なんか聞きたくないのだ。

◆今日、空手の稽古で子供達に「空手の修業に終わりはあるのか?」と聞かれた。
進学などで空手を続けられるか不安でそんな疑問を持ったのだと思う。
「修業に終わりなんてないよ。一つのことを究める姿勢がないと、なにをやっても中途半端になるから、関わったことは最後までやり遂げなさい。最後は死ぬ時だけど(笑)」
と答えた。
素直に納得していた。

若い修業時代、『一貫した考え方がなく、技術だけを切り売りする、哲学なき指導者は詐欺師である』と教えられたことを、子供達と話していて、また思いだした。