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déraciné

思考と哲学の旅日記

パガニーニ

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通院の行き帰りは350Zでデビッド・ギャレットのパガニーニを大音量で聴きながらドライブ。


”技術は感情表現の為に生まれた”という率直な答えをパガニーニはその悪魔的なバイオリンで表わしている。


その技術を産んだ感情は、その個人のリテラシー・審美眼から産まれるわけで、パガニーニはいかなる人間形成と環境と教育によってその悪魔の領域に達したのか?本当に興味深い。


結局、よい芸術というのは、自分が感動するレベルを上げる努力を継続し、それを計算でなく、感性で作業・実務・数値に変換しながら、万人を感動させることができる作品を作れるかにチャレンジしてるか?なんじゃないかな。

「俺にはできない!私にはできない!」と最初からいう奴がいるが、そんなら辞めりゃいいし、一事が万事で、そんな奴どうせろくな人生をおくらないんだから、死ねばいいだんよ。

 

できないことにチャレンジするから意味があり、クリエイトされる。

金で買えないものってこれだ。


初めからチャレンジを放棄して

「いやいやわたくしは第3希望で」

「いやいや私は真似ができたら満足で」「いやいやいやわたくしの主観ですからわかる方にわかれば満足です」

と逃げてるんだったら、そんなもんとっとと脚洗ってラーメン屋の行列にでも並んどれ。

 

パガニーニを初めて聴いたのが久保陽子さんのカプリースの演奏だった。
久保陽子さんって方も凄い方で今も現役バリバリで、若い頃から叛骨心と真実を追求する芸術家で、パガニーニ事件というのにも遭遇されます。(1964年にパガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールに出場し、世界において日本の音楽家の地位が高く認められていなかった当時、日本人が国際コンクールで上位入賞することは日本中の音楽教育者たちの悲願であった。
パリ留学において、西洋音楽の本場の伝統を充分に吸収していた久保は、コンクールでも抜群の演奏を披露した。審査員の中には国際的な公平さを追求する目的で、当時高名な日本人教育者であった鷲見三郎がいた。鷲見は久保がコンクールを受験するに際して、自分に一度も教えを請うことがなかったことに大きな疑問を抱いていた。
当時はコンクールの評価決定においても、師弟関係や開催国出身者、審査員の弟子、国際関係上発言力の強い国の出身者などに有利な判定が下されることなどが慣習としてあり、実力のみで審査が行われているわけではなかったという。
鷲見に教えを請い、彼の弟子となっていれば、当然判定に有利に働いていたわけであるが、その事情を理解していた久保は、当時の慣習にあえて目をつむり、鷲見の直弟子として教えを請うことを避け、ただ実力によって純粋に世界で結果を出したいと願って乗り込んだのであった。
久保の技術と音楽的主張に外国人審査員たちは舌を巻いて高く評価したが、鷲見は最後まで、辛口の評価を付け続けた。それに対して周りの審査員が「同じ日本人なのに、なぜキミはあんな素晴らしい陽子に不当な点を入れるんだ?」と口々に批難したという。結果第2位入賞。久保からはこの件について言及がない。/wikiより)

本物ってのは根拠ある叛骨ありきだよ。

 

地位・名声・金を目的にやってる奴は転げ落ちるようにダッサイ人生になって、夢見た自分とは正反対の自分になっちまって、そして、やっかいなジジィババアになって「はやく死にゃいいのに(笑)」と言われれ晩年を迎える。

 

本物は体裁なんか繕わず、他人の悪口も気にせず、信念を持って最高の芸術を生み出そうと、正面突破する気概を持ってる。そして倒れても何度でも立ち上がる。そういうのをロックっていうんじゃないんか?

ファッションではなくて。

音がロックとかファッションがロックとか間抜けなこと言ってないで、もっとファンダメンタル・プリンシパルをしっかり見据え持ったことすべきじゃないかな?

それがあたりまえにできる芸術家はまだ世界にゴロゴロ居る。たくさん本物にであたいね。

人間は知ってることより、できることが多い人の方が価値がある。

 

 

 

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