déraciné

思考と哲学の旅日記

Metempsychosis


友人が自死したと連絡があった。

彼は48年間、流転の日々だった。
真面目な奴で、人生を真面目に正面から捉え過ぎたと思う。

死ぬより生きる方が苦しいことをよく知っていて、尚且つ、苦しいことを選ぶことが人として正しいことは、彼も理解していた。

人間は、実は自身は世から求められておらず、それは誰もがそうで、自分の代わりはいくらでも居て、自分が死のうがこの世の中の時間が止まるわけでもなく、自身の時間が止まるだけで、この世には誰一人必要がないということを、30歳を過ぎればなんとなく誰もが悟る。

彼は、苦しいことを選び続け、尚且つ、世にも用いられぬ自身の存在の歪さに、なにかの弾みで、自らの命を絶ってしまったのだろう。


人には生きる意味などない。
しかし、死ぬことにも意味はない。

宗教や哲学は後付けで無理矢理、生きることに意味付けしてるだけで。




しかし、自死に対して私は逆に生への強い執着心を感じる。
執着があったからこそ自死を選ぶのだのだろう。

私は執着がないので、生きてることなんてどうでもいいと思っている。
成功とか満たされるとか、どうでもいいと思っている。
執着がないから、生きている時間を存分に楽しみ、生命を使い切ろうと思う。
寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。


そんな”いい加減”さが彼にあれば、晋作曰くの、おもしろきなきなき世もおもしろくなったんじゃないか?と思う。

産まれてくることと、死ぬことは、天に任せ、生きてる間は自身の力で楽しめばいいだけだ。

人は適当で自由な存在である。
執着を捨ててこそ、逆に真の、自身の存在意義を悟れるんじゃないかな。

友よ、また君は輪廻してこの厭離穢土に産まれ、同じ苦しみ味わうだろうが、その時は、開き直って、執着を捨て、君の生きる使命を自ら見出して、自覚して欲しい。

私は自死する人間に哀悼はしない。

さようなら。
また産まれてこいや。

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