矢郷良明 LIFE philosophy @deracine5to1

思考と哲学の旅日記

執着を捨てること

柳生宗矩の言葉に
「ただ勝とうとひとすじに思いつめるのは病である。
わが得意の技を使おうとひとすじに思うのも病である。
日頃の鍛練の成果をあらわそうと思いつめるのも病。
打ちかかろうとひとすじに思うのも、待ちの態勢で後の先の技をつかおうとばかり思うのも、これまた病である。
これらの意識の固着を去ろうと、ひたすら思いつめるのも病といえる。
何事もひたすら一途に考え停滞することは病であるから、これらの病を去ってこそ、心をととのえることができるのである。」(兵法家伝書)
人の智恵は、執着によって曇らされるという真理を語っている。
常日頃から『平常心』を持って事にあたることが真理であるということである。
これは私も実感する事実であり、間違いない真理だと思う。
泰然自若とした心がないと何も成し得ないのである。
◆しかしそんな平常心を持つには日頃から「自分を律する鍛練」をしなければならない。
スポーツ選手はその競技の練習を毎日しなければならないし、
武道家は毎日鍛練しなければならない。
画家や書家は毎日書かなければ進歩しないだろうし、楽器も毎日弾いかなければ上達もない。

しかし武道やコンタクトスポーツは、「相手がいないと練習にならない」ことばかりで、独りではなかなか進歩しない。
まず、その環境を作ることから稽古が始まるのだ。
そして対人練習やスパーリングは「練習は相手の体を借りて練習しているのだから、相手に感謝して練習する」礼の心が大切になるのである。
試合も「相手の体を互いに借りて強さの自己表現をしている」のだから相手に感謝しなければならない。
戦場(いくさば)では「戦場で死ぬ時に死ぬことができないのは恥」と敗者に《非情の情》を持って”とどめ”を刺した。
習練を重ねる度に、何事も一次元、上の視野を持って稽古をせねばならない。
それが智恵ということである。
そしてそれが人格に徳を持つことに繋がる。
何事にもそうだが、生の感情を出しているうちは、他の人よりも劣っていると心得たらよい。

◆だが「独りでは練習にならないことばかり」なのを憂いて考えられたのか、武道には「基本」と「型」がある。
「基本」と「型」を練り上げれば、独り稽古ででも自分の動きを洗練させることができる。

空手の稽古を例すると、ある程度、組手ができる人達が向上するには、もっとしっかり「基本」と「型」を練り込んだほうがミットを蹴ったりスパーリングするより早いと思う。
いかに基本と型が大切かということである。

それを何十年と毎日稽古してようやく、執着を捨て、平常心を持てるようになるのだと思う。
少し「かじった」程度では真理なんて、なんにも判らないのだ。

芸事は死ぬまで稽古である。